かげろう

 とある屋敷の奥の間に、分厚い布団が一つ敷かれていた。その上に横たわるのは、細身の少女。年は今年で十と七つ。年齢から見れば、とっくに嫁いでもおかしくない程の年頃なのだが、いかんせん骨と皮だけのような体躯では女としての色気の欠片も感じられなかった。名はと言った。

 平たくなった布団の中でぼんやりと天井に目を向けていたは、ふと喉が渇いてお目付け役の男の名を呼んだ。
 
「高久?」

 返事は返ってこない。耳をすませて、しばらく反応を待ってみたが、こちらに向かう足音さえ聞こえなかった。「あら……変ね」と頬に柔らかい手を当てて困ったように微笑む。

 まぁ、いいだろう。

 は小さく息をつき、布団から這い出た。体にずしりと圧し掛かる布団を押しのけて立ち上がろうとするが、力のない彼女にとって、それはかなり厄介な運動だったようだ。両肩を大きく上下させ、膝立ちになったまま深呼吸をしながら、波打つ胸をそっと押さえた。

 ようやく呼吸が落ち着いてくると、はそのまま障子のそばまで擦り寄った。着物と畳の目が擦れあって、微かな音を立てる。障子の向こうを、はまだ見たことがない。ただ、薄い紙を挟んだ向こう側からはいつも楽しそうな笑い声が聞こえてきた。


「慶ちゃん、また来てぇな!」
「おう、またな!」
「なぁなぁ、次はいつ来るん?」

「慶ちゃん!今日も男前やな!」
「ははっ!ありがとな、ばっちゃん! っと、そう言えば腰の調子はどうだ?あんまり無理はすんなよ」
「慶ちゃんは体に似合わず心配性やわ!」

「慶次にぃちゃん!慶次にぃちゃん!」
「ん?何だ?」
「夢吉抱っこさせてぇな!」
「だってよ、夢吉!」
「キキッ」


 眩しい。きらきらと弾けるようだ。は明障子の向こうから聞こえてくる言葉や話声から、たくさんのことを想像した。この声の主は、どんな容姿で、どんな人なのか。

 が空想する物語は、甘い男女の恋物語であったり、親のいない男と子のいない女の仄悲しい物語であったり、動物の家来を従えた少年の出世物語であったりと様々だった。見たことのない相手だからこそ勝手に想像して、勝手にお話をつくることができるのだとは解っていたが、それでも彼女の無垢な好奇心は想像から、実際の「その人」へと細く長い糸のように向かっていった。いつか、外に出てみたい。いつか、彼らと話してみたい。


 そんな願望を抱いていた矢先に訪れたのはまさに絶好の機会であった。いつも自分の傍に控えている目付け役は郷に帰ったらしく「代わりに」と寄こされた者はどうにも怠け者でが呼んでもちっとも来はしない。彼女は次第に自分で自分のことを始末するようになった。部屋をあちこち動き、廊下をすり足で歩き、そうするうちに彼女は目付け役がいない今こそチャンスなのではないかと思うようになった。そしては薄い、障子紙の縁にギリギリのところに小さな覗き穴を開けた。

べり、と指が薄紙を突き破った時の胸の高鳴りと言ったら、瑞碌寺の鐘の音よりも大きかったんじゃないかと思うほどだった。は細く息を吐いた。両の手が細かく震えている。ああ、だけど、はその向こうを覗くのが怖かった。

夢にまで見た障子の向こう。は廊下の奥の方、障子とは反対の方向、つまり屋敷の中枢へと耳をすませて、誰かが来る気配がないことを確かめた。ちょっとだけ。ちょっとだけ外の様子を垣間見てみるだけ。
 ごくりと喉を鳴らしたは穴に合わせてかがみこもうとして、だけれど、巌のように固まったまま、動けなかった。こうも容易く念願が叶ってしまっていいのだろうかという迷いがの体を強張らせたのだった。

 やはりやめておこう。はこの部屋の中から出ることを禁じられている。
 わけは解らぬ。だが、理由もなしにそんなことをするはずがない。婆は「おかわいそうな姫様」と涙を流してこの家を去った。爺は「これも時代の流れですな」と口惜しそうにして、父のかたみである脇差をに寄越した。は「きっと私は生まれてはいけなかった子なのだ」と思っていた。だからこのまま誰にも知られぬまま、ひっそりと生涯を終えるのが正しい道なのだ。
 

この穴は後で目付け役に言って塞いでおこう。にとっては眼の毒でしかない。外を垣間見ることなんて。

 涙をこらえるの耳に届いたのは、障子の紙が破れる軽い音だった。

「あ、」

 キキッと甲高い何かの声。その鳴き声をは知っていた。




「あ、っおい!!夢吉!」

 京の大通りから少し外れた小路に慶次の声が響く。慌てて伸ばした腕の先を小さな茶色の毛並みがぴょこぴょこと軽やかに跳ねていった。その毛並みは小路を通り抜け、突き当りの垣根を飛び越え、そして向こう側へと消えていった。


 慶次は思わず「あちゃー」と額に手を当てて首を振った。その動きに合わせて長く垂らした髪も大きく揺れる。通りがかった行商人が「ありゃ、あそこは堀河様のお屋敷だねぇ」と言うのがちらりと聞こえて、更にしまったと思う。

「おい、おいっ夢吉!!」

こそこそと呼んでみても出てくる気配はない。何かが破れるような音の後に、小さな声があがった。本当に微かな声だったが、女の声だと慶次の耳にはしっかりと届いていた。

「キッ」

 そして、その後には慶次の良く知る鳴き声が追従する。

「えっ……あら、猿……?」

 驚きから、一転して随分と落ち着いた声が響いてきた。慶次は屋敷を取り囲んでいるやけに背の高い垣根に軽くよじ登り、自慢の体躯を上手く利用して、その中を覗き込んだ。

 そこには手入れを忘れたような庭が広がっていた。枝の伸びすぎた生垣の奥に閉じられた障子が見える。もう幾年も張り替えていないのだろう。黄ばみ始めた障子の下の方にひとつ小さな穴が開いていた。それが単に風で破れたりしたものではないことは、すぐに分かった。穴はちょうど慶次の拳の大きさ。夢吉、あいつ余所様の屋敷の障子に穴開けやがったのか!!!

「キィ……」

どこか困ったような相棒の声が聞こえる。さすがに自分のやらかしたことの重大さに気付いたのだろう。

「…なぁ!」

 慶次は垣根の中、障子の向こう側へと呼びかけた。

「悪いな!その小猿、俺の相棒なんだ!今すぐ迎えにいくからさ!」

 何か返事がないかと期待してみたが、その後一向に言葉らしきものは聞こえなかった。その代わりに自分の相棒である小猿、夢吉の鳴き声だけがかすかにする。


「っと…この垣根を飛び越えてもいいかい?」


 障子の向こうに家主がいるのなら、わざわざ門を回るよりこの垣根を飛び越えた方が手っ取り早いだろう。そう思った慶次は一応断っておこうと声を張り上げた。

かたん。

 慶次が勢いをつけて垣根を乗り越えたその時、小さく障子の枠が揺れる音がした。障子の向こうにゆらりと動く人影が見える。長い長い黒髪の女がこちらを見つめていた。思わず慶次はその薄紙越しにうっすらと見える姿に魅入られたかのように、動きを止めた。




 どうしましょ。
 は口を手で覆って眉を下げた。

 が外への好奇心を諦めたその時、障子を突き破って入ってきたのは一匹の可愛いらしい子猿だった。両掌に収まりそうな大きさの小猿は、の方を見上げて小さくキィキィと声を上げていた。

「お猿さん…おいでおいで」

その小猿はが畳の上に広げた手のひらの上には寄ろうとはしなかったが、それでも大きな黒曜石のような瞳をにきょろりと向けてそちらを見つめてきた。絵草子で見たことはあるが、初めて見る「猿」の姿には感動すらしていた。

「…なぁ!そいつ、俺の相棒なんだ!今すぐ迎えにいくからさ!」

 障子の向こうからそんな弾けるような勢いのよい声が飛んできて、は思わず逃げ腰になりかけた。男の声だ。今すぐ迎えに…。その男の言った言葉を数回反芻してようやく理解する。その男はまさかこの家に入って来ようとしているのではないか……。は顔を青くさせた。

「いけません……っ!!」
「よ、っと」

の言葉が聞こえなかったのか、障子の向こう側の男が生垣を乗り越えたのだろう音を聞きつけて、は卒倒しそうになった。頭の奥からザーーーーッと大波のように血の気が引いていく。

 どす、と重そうな何かが庭の土の上に落ちる音がした。一体どれほどの大男なのだろうか。その震動で障子の枠がかたりと動いた。わずかに注がれる眩しい光に釣られて、腕が伸びる。細く、指が一本かろうじて通るくらいに開かれた障子の向こうに、草を踏み分け入っている男が見えた。柔らかい庭土を踏みしめる音。そしての心臓の音。様々な音が、の脳内で不協和音をつくり出していた。

 障子の向こうが陰る。男の手が、その枠に掛けられた。

 
 この小猿を捕まえて、さっさと庭に戻してやれば良かった。そうすれば、相手に袖くらいは見えてしまうだろうが、こんな風に庭に乗り込んでくるようなこともなかっただろうに。様々な思いが浮かんでは消え、そして、障子はついに開かれようとしている。木がぎしりと軋む音がして

「あれ?」

 男のぽかん、とした顔が目に浮かぶ。そんな声がした。

「ん?おかしいなぁ…」

 かたかたと揺れたり軋んだりはするものの、それ以上はほとんど全く動かなかった。ほっとすべきなのか、それとも戸が壊れちゃったのかしらと不安がるべきなのか。眉を寄せるの膝の傍にいつの間にか擦り寄ってきた小猿がキィと小さく泣いていた。

「…もし、」

は喉の奥から力を振り絞る。

「ん?あっ、この屋敷の娘さんかい?」

 溌剌とした、そして少し優しげな声音で返事が返ってくる。ああこの声はもしかして。は小さく頷き、更に言葉を返した。


「その通りです。ですが、私は事情があって顔をお見せすることができません。申し訳ありませんが、この小猿はこの穴からお返しするということで如何でしょう?」
「いや、障子に穴を開けちゃった件もあるし。やっぱり直接謝らせちゃくれねーかい?」

は首を横に振った。

「障子の件は気にすることはありません。それは以前より空いていたものですから。お気になさらず」

 そう言っては指で、穴の空いた障子の縁をとんと叩いた。好奇心に負けて、開けてしまった穴が、まさかこんな風になるなんて思わなかった。の唇にはいつの間にか柔らかな笑みが浮かんでいた。

 男はやはり少し言葉に詰まったようだが、は構わずに続けた。
「さぁ、どうぞ」
 膝の上で丸まっていた小猿を「ほら」と手招いて、障子の縁まで持ち上げる。夢吉という名らしい、その小猿はちょいとを振り返り小さく鳴くと、あっという間に障子の向こうへ姿を消した。

「ははっ、夢吉がありがとうってさ」

 まさか獣の言葉がわかるはずもないのに、本当にそう言われたような気がして、は小さく微笑んだ。

「なぁ、また改めて礼をしにくるよ」

 は答えなかった。



 その夜、はぱちぱちと爆ぜるような音を子守唄にして眠りについた。




瑞碌寺の隣の屋敷から火の手が上がったのは夜中丑三つ時を少し過ぎた頃だった。屋敷をぐるっと大きく取り囲む背の高い生垣のおかげで、火の手が近隣にまで回ることはなかった。誰もいないはずの屋敷で一体どんな火種があったというのか。見事に一面炭と果てた残骸を見て、誰ともなしに皆口々に声を潜めた。「こりゃあ付け火じゃないかね」などと。

「あのお屋敷にはね、昔から妙な噂があったもんだよ」

茶屋を営んで数十年という店の主人は「あのね」と口元を隠すように手をやった。

「誰もいないはずのお屋敷から、女の声がするんだよ。俺も何回か聞いたことがあるんだがね、たかひさぁ…たかひさぁ…って男の名を呼ぶんだよ……その高久って男に捨てられた女の幽霊じゃねぇかなんて言う奴も居たがね」

店主はそこで意味ありげに言葉を切った。

「俺はそうじゃあねぇと思うね」
「へぇ…そりゃ何でだい?」

そう尋ねる慶次に店主はさも待ってましたとばかりに笑い交じりに言う。

「そりゃ呼ぶ声に色がねぇからだね」
「色?」
「あんちゃんもわかるだろう。恋い慕う相手の名を呼ぶときにゃ、もっとこう……しっとり、と呼ぶもんだろう」
しっとり、に絶妙な間合いをつける店主に慶次はハハッと陽気に笑って見せた。
「おやっさんもやるねェ」
「バカ言うなよ、倅には内緒だぜ」
「おやっさん、俺人を探してるんだけどさ。堀河様って名前知ってるかい?」
「堀河様?知らないねぇ」
「そっか……おし、じゃあそろそろ出るかな。おやっさんいくらだい?」

低い暖簾をくぐり、慶次が向かった先はすっかり焼失してしまった屋敷の跡である。生垣をぐるりと回り、彼女と出会ったあの場所だろうと思われるところでパタリと足を止めた。人から伝え聞いた話じゃ、骨は一切出てこなかったらしい。そのことを耳にした慶次は、じゃああの夏の日のことは夢だったのだろうかと、ぼんやりそんな風に思う。

障子の隙間から見た大きな瞳と、障子紙ごしにちらりと見えた小筆のように細い指先。開かないように釘が打ちつけられた戸。あの屋敷に一体誰が居て、何があったのかを確かめるものは無残にも焼かれてしまった。

「なぁ、夢吉」

彼女をはっきりと見たのはこの夢吉しかいない。

「彼女は一体どこに消えたんだろうな」

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