チェネレントラの逃走


 その『館』に集った男たちは皆、黒に近い濃い色のスーツに身を包んでいた。部屋の中央にある楕円のテーブルに全員が座ると、女主人が壁から下がった鈴を鳴らした。チリンと涼やかな音が響き、扉の向こうから白いエプロンを身につけた少女がやってくる。少女は扉の元で軽く膝を折り、手にした盆の上に乗ったグラスを男たちに配り始めた。
「それじゃあ乾杯といこう」
 最奥の男がグラスを掲げて音頭をとる。
「乾杯!」
 目の前の黄金は自分たちが手にしたも同然と、その場にいた全員が目をぎらつかせて高らかに笑った。さほど広くない室内に男たちの笑いと煙草の煙が立ち込めていた。

 館の地下には、いくつもの薄汚れた部屋があった。少女たちが「仕置部屋」と呼称し怖がっている通り、その部屋はヘマをした者が折檻を受けたり、脱走を企てた者が数日押し込められるための場所だった。破瓜のあまりの痛みに客に歯型をつけた少女が「夕食抜きだ」と言って仕置部屋に閉じ込められたのと同日、隣の部屋に一人の男が投げ入れられた。
 拳が腹部にめり込み、吐き出された何かが床にぶちまけられる音。荒々しい暴力の気配に少女はそっと息を潜めていた。
 高級そうなスーツに身をつつんだ、その場にそぐわ無い身なりの男たちが立ち去るのを待って隣の部屋の様子をそっと伺った。
 痛みに呻く声が地下牢に響く。か細い呼吸は今にも途絶えそうで、思わず壁に耳をつけた。かさとスカートの裾が地面と擦れて音を立てる。
「誰かいるのか?」
 ゆっくりと男が首をもたげる気配がする。


 今にも事切れそうな男から少女が預かったのは碧い宝石が輝く指輪と言伝だった。隣の地下牢から放り投げられた指輪は向かいの壁にぶつかり、カラカラと音を立てながら少女の足元へと転がってきた。指で触れると少しだけ暖かい。
「この指輪を外にいる仲間に渡して欲しい」
 屋敷の裏手の道にボロをまとったブローノという名の浮浪者がいるはずだ、そいつに渡してほしいと男は言った。石座にはまった石は親指の爪ほども大きく、それだけで価値のある代物に見えた。
「引き換えに君の願いを一つ叶えてやろう」
 今日が初対面の、それも顔も見えぬ男の話を一体どれだけ信用できるものか。けれど、それでも、沈みかけの泥舟、水辺に生えた葦だとしても縋りたい気持ちがあった。田舎から口減らしのために売られた少女は、この館から逃げて、どこでもいいからここではないどこか安全な場所に連れて行ってほしかった。ゆっくりと眠れる場所がほしかった。背中を優しく抱きしめてくれる誰かを待っていた。
「でも、どうやって願いを叶えてくれるの」
 今にも死にそうな貴方が。そう言うと壁の向こうから小さく笑う声がした。
「お安い御用だ」
 それきり男は何も言葉を発さなかった。


 ガタついた扉を枠に押し込むように閉め、少女はゆっくり音を立てないようにして地下の仕置部屋を抜けた。鍵のかかった扉はその実、蝶番が古く錆びているせいで、扉ごと外せるというのはおそらく彼女の他に知る者はいないのだろう。誰かが気づいて修理されないままで良かったと息をつく。少女の隣の地下牢にいた男はうつ伏せになり、すでに事切れているようだった。少女は預かった指輪を握りしめ、その場を立ち去った。
 表のピカピカに磨き上げた廊下とは違って、従業員が忙しく交差するバックヤードは壁沿いに細々としたものが積み上げられていて、ようやく人一人が通れるくらいの通路だ。すり抜けて通ろうとすれば、壁に染み付いた埃やシミが服に移って汚れるに違いない。身につけていたエプロンを外し、小さく畳んでポケットの奥へと押し込んだ。
 いつから放置してあるのかわからないくらい煤汚れたワインボトルの箱を跨いで、通路をまっすぐ進む。
 ドッと男たちの笑い声が響いた。

 ……この部屋は。

 少女は足を止めた。周囲に転がっていた木箱を積み上げて、その上に足を乗せる。壁の上部にはめられた通気口からヤニの臭いが漂ってきていた。奥の粘膜を灼くような鼻につく臭い。
 高級そうなスーツに身をつつんだ男たちの遠慮のない笑い声の向こう側、女主人が用意した女たちの嬌声の間、密かに交わされる会話に耳を澄ませた。
「一人殺したくらいで日和やがって」
「カピターノは運が悪かったってことだ」
「アレッサンドロの工房が作った宝石が」
「取引は三日後だ、忘れんなよ」
 会話が賑やかなうちに少女は木箱を降りた。女主人と着飾った女たちの甲高い笑いに背を向ける。今がチャンスだと、信じて静かに足を動かした。スーツの男たちを持て成すために女もキッチンも屋敷全員の意識がそこに集中していた。逃げるなら、今しかない。
 裏の戸口を細く開いて、少女は薄暗い通りに目を走らせた。男のいう、浮浪者の姿を探して視線をあちこちに向ける。けれど猫の気配すらもなかった。
「……」
 緊張で早くなる呼吸を必死に押さえ込んでいる彼女の周囲に人気はなく、見ているのはゴミ箱の上を飛び交う烏だけだった。烏の黄色い目がこちらを向いていた。そういえば烏は光物に興味を持つと聞く。少女は慌てて指輪を両手でしっかりと包み、胸元に隠した。
 その時だ、裏手口が開いたのは。
「あら……あんた、何してるの?」
 この館、『月の館』の女主人が冷たくこちらを見下ろしていた。田舎から売られてきたばかりの少女の体は貧相で客の評判も、女主人からの覚えもあまり良くなかった。尖ったヒールを履いた彼女に見下ろされると耳の奥で鞭のしなる音と火が爆ぜる音が響き、背筋がすくんでしまう。けれど少女は無理やり頬の肉をあげて微笑んだ。こういう時は無理やりにでも笑ったほうがいいのだと心得ている。
「汚物をまとめておりました」
 少女の隣にはシーツやタオルが積み上げられた洗濯籠がある。女主人はそれをいちいち検めようとは思わなかったらしい。ふぅん、と小さく鼻を鳴らして少女の腕を引っ掴んだ。
「サボっていたからお仕置きよ」
 赤く紅を塗った唇がにこりと綺麗な半月を描いた。鋭い爪が食い込み、喉の奥を迫り上がってきた悲鳴を堪える。その時だった。洗濯籠の裏から、浮浪者が飛びかかってきたのは。

 少女と女主人を襲ったのは男の言っていた浮浪者だった。少女は瞬きをした。目を閉じたのは一瞬のはずだったはずなのに気づけば女主人は仰向けに倒れ、汚物でたっぷりの洗濯籠の中に頭から突っ込んでいくところだった。
「あの、あなた」
「シッ静かに。こっちだ」
 彼に連れられてやってきたのはネアポリスの通りに看板を出す一軒のリストランテだった。男はまっすぐ奥の階段へと向かった。少女は男の背後にくっつくようにして狭い階段を登る。階上の部屋の奥、一人がけのソファに座る影に向かっての背中を押した。驚き振り返ると、そこにはもう男はいなかった。
「名前は?」
 影が立ち上がり尋ねる。
「……」
 『館』では女一人一人に花の名を付けられていた。
 少女は影にその名を名乗った。
「そうじゃない。君の名前だ」
「……」
 少女はきょとんと瞬き、それから息を吸った。ため息をつくように小さな声で己の名を発する。
「……
 およそ数ヶ月ぶりだった。その名を発するのは。『館』ではは人ではなく花であった。気まぐれに手折られるだけの花だった。いずれ枯れ落ち、腐った根とともに土塊になるのだと覚悟していただけに、安堵が込み上げ、溢れたものが瞼の裏から零れた。
 

 「中々消えないな、この傷は」
 いつぞやの折檻の、爛れたような傷跡をブチャラティは指でなぞる。
 はくすぐったさに息を詰めた。

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