迷子の青頭巾くん

「宍戸さん」
 学校で耳にするようなキンと響くハイトーンではなく、耳の奥に滲むような落ち着いた声で、俺を呼ぶ。彼女は俺の命の恩人だった。
 それは、かなり異色の出会いだと言えるだろう。

「……は?」
「えっ何、誰??っていうか今どこから……!!???」
 後になって分かったことだが、こういう展開をトリップと呼ぶらしい。トリップしたのは俺で、以降俺は彼女の家に居候をしている身だ。



 異世界、とは言っても世界のだいたいの構造は俺が元居た世界とほとんど全く変わりはしなかった。太陽があって、人間が住んでいて、学生は学校に通って、唯一、違うことと言えば「氷帝学園」がないことだろうか。
 自分は怪しいものじゃない!と証明するために、鞄の底の方から小さな学生手帳を引っ張り出したときのことだった。
「氷帝学園…?」
 氷帝は都内じゃあ、お金持ちのそこそこ進学校として有名でもあったので、「あぁ知ってるのか?」と俺は単純にそんな気持ちでいた。目を丸くする彼女が学生手帳を指差す。
「これ、公式グッズじゃないですよね。自作ですか?」
「……ハァ?」
 いくつも年上の相手に向かって、そんな物言いをしたのは人生において初めてのことだった。自作って何だ。


「――ということはあなた本物の宍戸さんってこと、ですよね」
「――俺たちが、漫画の、キャラクター……」

 嘘だろ。愕然とする俺の目の前には、青いカバーのコミックスがずらりと並んでいて、嘘にしては完璧すぎるし、そもそもこの見知らぬ女性が自分に嘘をつく理由がない。
 彼女はパソコンを開いて、インターネットの検索ボックスに「氷帝学園」と打ち込んで、氷帝学園が実在しないことを証明してみせた。跡部財閥が総力をあげて俺にドッキリを仕掛けでもしなきゃ、こうはならないだろう。出てくるのは漫画の情報ばかりだった。目の前が真っ暗になった。そりゃねーだろうよ。どこに向かって言う訳でもないが、それでも悪態くらいは吐かせて欲しい。




 目を覚ますと、真っ白い天井が見えた。ここはどこだ、保健室かとぼんやり考える暇もなく「宍戸くん」と耳馴染みのよい声がして、俺はあぁ、やっぱりアレは夢じゃなかったのかと思った。
「大丈夫ですか?」
 横からじっと覗き込む瞳は心配そうな色が滲んでいて、なぜだか申し訳なくなった。状況から察するに、俺が彼女の部屋に突然現れて、そしてぶっ倒れたのだろう。不審者も当然の俺に向かって何のんきなこと言ってんだよ、この人。どうしたって胸の奥から込み上げる不安と目の前の女性から与えられる安心に、ツンと鼻の上の方が痛くなって俺は慌てて俯いた。
「私はと言います」
 これから宜しくお願いしますね。そう言ってほほ笑んだ彼女に、戸惑いの視線を送る。
「元の場所に帰れるまで、うちに居てください」
 学生証とラケットバッグ、見知らぬ世界で役に立ちそうなものを何一つ持っていない俺に差しのべられた腕は細く、まるで逞しさを感じさせないものだったけれど、それでも俺はそれに縋るしかなかった。情けないことに、この晩、俺は彼女の胸の中で泣いた。





「宍戸さん」
 トリップしてから一か月が経った今、俺は何となくこの生活に慣れつつある。彼女が日中留守の間は近所の図書館で時間をつぶして、彼女が帰宅する少し前に帰ってきて、お風呂を沸かしておいたりして。
さん、おかえり」
 ハイヒールのストラップと格闘しているさんにそう言うと、彼女が顔を上げて笑った。
「ただいま、宍戸さん」
 その表情が何とも甘やかで、俺は何度も勘違いをしそうになる。そんな馬鹿なことがあるはずがないと何度も言い聞かせる。
「……その宍戸さん、っていうのナントカならないっスかね。俺、中学生っスよ」
「あぁ!」
 ポンと掌を軽く合わせて、まるで初めて気が付いたというふうに彼女は丸い目を見開いた。
「ん〜……、でももう呼びなれちゃってるからなぁ」
 照れくさそうに笑う彼女は、なんでも漫画の中の「氷帝学園」のファンだったらしい。
「俺の方がガキなんだし」
 宍戸さん宍戸さんと、その絹のような声に呼ばれる度に、俺は元の世界の後輩を思い出して、そしてやがてくるだろう別れの予感を思って震える。
「亮くんって呼んだ方がいい?」
「それは――……恥ずかしいんで勘弁してください」
 いつか来る別れならば、今を鮮明に胸に刻みつけたい。

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