赤染

  かつて、どうしようもないまでに恋がれた女の子がいた。
 相手は女と呼ぶにはあどけない年頃の女の子で、武家の娘らしい凛とした空気とふわりと帯が解けるようなやわらかい笑い声と。ちゃんと食べてんのかってくらい華奢な体つきと時折り匂わせる艶やかな仕草と。

 何から何までアンバランスな印象のお姫様だった。


「討ち取ったりぃぃいぃ!!」


 どこか、この部屋の遠くで真田の旦那が吠える声が聞こえた。
 あぁ、終わったんだなと佐助は戦場に立つその赤い姿を脳裏に浮かべた。

 目の前に静かに坐した彼女にもその声が聞こえたのだろう。血の気の引いたまっしろな顔に眉をじんわりと歪ませて、ふるえる唇を無理やりこじ開けるように「あれは真田の…」と呟いた。


 土埃を上げて馬が城内を駆け回る。門はとっくに破られた。その様を眺めて、彼女はふと一つ息を吐く。彼女はこの城の姫だ。裏切りの城主の娘。本来なら彼女は大将の元に連れて行き、措置を決められるべきものだろう。
 しかし佐助に下った命は――。


 戦は終いだ。敵軍の大将は旦那が討ち取った。あとは味方武将が幸村の後ろを追っているから、直ぐに片がつくだろう。さて、と佐助は天井裏に這った腹を浮かせた。ギシと音がかすかに立ったが、それは忍の耳にかすかに聞こえるくらいの音だ。あのお姫様には聞こえまい。

 装束の影から手の平大ほどの小刀を取り出し、その鞘をゆっくりと引きぬく。音が聞こえたはずもない。気配を感じたふうでもない。それなのに、彼女は実に自然な動作で佐助の居る天井を見上げて、

 「そこに居るあなた、下りてきなさいな」

 と言った。


 畳の上に降り立つ影を見て、その姫は微笑む。体も顔も黒い布で覆わせた佐助は、黙ったまま立ち尽くしていた。

「あなた、真田忍でしょう」

 武田の忍であるはずがない、と彼女は言い当てた。
 父は裏切ったとはいえ、元は武田の家臣。何代にも亘って仕えた家臣の家に自分の配下の忍を寄越すなんてこと、お館様には絶対にできやしない。  もしも私たちを殺したのが武田忍だと、万が一にでも解ったら、そこに要らぬ懸念が生まれてしまう。


 彼女の話を一通り聞き終えたあと、佐助は一体何が言いたいのかと尋ねた。

「解らない?つまりね、父上は武田にはめられたと言いたいの」

 彼女の妄言に付き合っている暇はない。
 どたどたと城内を駈けずり回る足音はゆっくりとしかし着実にこの最上階を向かってきている。それがこの部屋にたどり着く前に、終わらせなければいけない。
 だというのに、佐助の腕は動かなかった。
 五感は相変わらず張りつめたままで、佐助は、構えかけた短刀をゆっくりと下す。

「久しぶりね、佐助」
「…最初から、気づいて」

「もちろん。私の所に寄越すとしたら、佐助だろうなと思ったわ」

 目の前の姫様は佐助の遠い記憶の中の像とさほど変わらない無邪気さで「ねぇ佐助」と微笑む。
 
「懐かしいわ。もう立派な忍ね」
「えぇ…」

 あなたも、すっかり綺麗な姫になって。

 佐助と彼女、がであった頃、まだ佐助もも背の丈が同じくらいだった頃の話だ。
 彼女はこんな艶やかな着物ではなく、小花を散らせた着物に、それに裸足で駆けまわるような、そんなお転婆姫だった。
 佐助はまだ一人前の忍ではなく、どちらかというと、達のお目付け役と言った所だった。 一緒に色々な所へ遊びに出向いては、腹を抱えて笑いあった。いい加減に大人しくしろと何度言い聞かせたことか。彼女は「そのうちね」「私だって15になったら落ち着くはずよ」と馬鹿なことを言っては佐助達を困らせた。


 「幸村も、」

 立派な武将になって。


 「幸村に討ち取られて、父もきっと安心してるわ」
 「それはどういう」

 「きっと幸村は、この戦の、いえ、これを戦と呼ぶにはおこがましいわね。この私掠の裏にある謀なんてちっともわからないまま、戦場を走っているんだろうから」

 父も、そんな純粋な人にとられてきっと安心してる。もしも私たちを嵌めた卑怯者に討たれたなんてあったら悔しくて仕方がないでしょうね。

「お館様もきっとわかってるから、この場に幸村と佐助を寄越したのよ」
「……、」

「はめられたとは言え、何某かの措置を取らなければならない。だけどきっと謹慎なんて軽い罰ではきっと他が煩く騒ぐに決まっている。それをお館様も、父も重々承知した上での戦なのよ、これは」


 とんでもないことを言う。
 佐助は緊張で乾いた舌に、もはや何も乗せられなかった。

 それがもしも正しいとしたら、俺は一体何をしにここに来たというのか。武田信玄あの人は、自分に何をさせたくて、ここに向かわせたのか。この姫は、一体何をどこまで知った上でここに居るのか。
 戦が始まる前に逃げることだってできたはずだ。それこそ、身代わりを立てておけば、この城の姫には二度となれずとも、普通の女として生き延びることだってできたのに。

 「…下品な声」

 直ぐ下階では、彼女を探す声が響いている。きっとその内、この部屋を嗅ぎ付けたヤツが上がってくるに違いない。
 その前に、速やかに彼女を「始末」する。その手筈だった。
 しかし佐助は、下げた腕を上げる気にはならなかった。

 佐助。

 ふと、呼ばれたような気がして、佐助は階下に向けた意識をに戻す。
 彼女はゆっくりと佐助に近づいて、その腕に手のひらを重ねた。

 記憶と違う柔い感触。昔は樹にぶら下がるようなお転婆も自重していたのだろう。
 あれこれとお転婆しただろうが、きっと武器には一度も触れたことがないだろう。
 その柔らかさに佐助は思わず喉の奥が絞まる思いだった。


 「佐助、ありがとう。ごめんね。私もきっと、父と同じだわ。他の誰より佐助なら信じられる」


 佐助の腕は彼女の腕に導かれるように持ち上がり、そして掌よりも柔い筋にそっと添えられる。階下の声が一際大きく鳴った。きっとこの部屋へ通じる入口でも見つけたに違いない。 空から侵入できる佐助にとってはそんな隠し扉なぞ、ハナから問題でなかったのだが。

 「後はよろしくね」


 そう言って一呼吸置いた彼女は佐助の腕を突き飛ばすように力いっぱい横に引いた。

 その勢いにのって、佐助の掌からことんと短刀が飛んだ。
 彼女の赤い衣が、それより深い色に染まる。
 その色はまるで、武田の赤。

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